重い鉄の玄関扉を開け、彼女は自分の部屋に入った。  表情が影を落としたようにすぐれないのは、彼女をこの古いマンションの10階まで運んできたエレベータの電灯が、目障りにずっとちらちら瞬いていたからだろうか。  あるいは部屋に立ち入った瞬間、かすかに鼻を掠めた嫌な臭いのせいだろうか。何もなかったはずだ。台所を覗いて腐らせるようなものは何もないことを確認する。  そうでなければ……つい先ほど知ってしまった、この部屋の隣室にまつわる忌まわしい過去のせいだろうか。  そのどれもが、そして今日までずっと彼女を悩ませる奇怪な出来事の数々が、その表情を陰鬱に曇らせているに違いなかった。  憂鬱な気分を忘れようと、水道からコップに水を注ぎ、飲みほした。今日は鉄さびのようなにおいが妙に鼻についた。  夕刻の赤い西日が背後から背後から差し込んでいる。電気をつけることさえ忘れていた。  ぎしぃ。  不快な蒸し暑さに、体中の毛穴から汗がにじみ出ているような錯覚を覚える。  馬鹿馬鹿しい。彼女は首を振った。  あれはこの部屋で起きたことじゃない。すぐ隣ではあるがこの部屋ではない。ということは、自分が感じていた音も、臭いも、気配も、全て錯覚に過ぎないはずだ。  足元に目を落とす。薄暗い部屋、赤い日差しと暗い影が強いコントラストで分け隔てられている。  影が揺れている。  彼女の後ろから伸びる長い影法師が一つ、ゆっくりと揺れている。右に。左に。ぎしぃ、ぎしぃ。  あれは、この部屋で起きたことじゃない。  昼間話に聞いた血の気の引くような出来事は、気味は悪いが、この隣の部屋でかつて起きたことであって、この部屋には何一つ関係ない。  ないはずだ。  ぎしぃ。  本当に?  例の事件について教えてくれた近所の人は、事件の起きた部屋番号を覚えていた。それは今いるこの部屋の隣の番号だった。  彼女の脳裏にこびりついた些細な違和感が繋がっていく。  隣の部屋の号数をきちんと見た覚えはない。事件後このマンションの入居者は一時激減したそうだ。特に事件のあった部屋と同じ階は。  部屋を借りた時、妙に部屋番号を書いたプレートが新しかったのを覚えている。  もし、もしもだ。  マンションの管理会社が、ワケアリ物件を隠そうとして、そうでなければ忌まわしい血の穢れがこびりついた部屋の存在を忘れようとして。  問題の部屋の号数を欠番にして、それ以降の号数をそっくり一つずらして表示していたとしたら?  ぎしぃ。  指先の震えが止まらない。のどがカラカラに乾き、目の前の台所がぐんにゃりと歪み、ひどい耳鳴りがした。  血の気が引ききってまともに働かない体の中で、鼻腔だけが忠実にその務めを果たし、むせ返るほどの腐臭を彼女の脳に訴え続けている。  ぎしぃ。  耳元で荒縄が軋む音がする。  やめて、と口にしようとして、乾ききった口腔からはかすれた吐息が吐き出されるだけだった。  それはずっとそこにいたのだ。彼女がこの部屋に越してくるそのずっと前から。  ずっとそこで、彼女を見続けていたのだ。  ずうっと、ずうっと。  シンクに置かれたやかんが目についた。購入したばかりの真新しいやかんの、鏡のように磨かれた表面に視線が吸い寄せられる。見たくない。見てはいけない。  見てしまった。  彼女の肩越しに、 「フギャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」 「いやああああああああああああああああああああああああああ!!!!!」  談話室から轟いてきた悲鳴に、プロデューサーとちひろは顔を見合わせた。 「楽しそうだなああいつら」 「楽しそうですねえ」  ことの始まりは一時間前にさかのぼる。 「おススメのホラー映画を教えてほしい?」  机に向かい事務仕事をしながら話を聞いていたプロデューサーは、輿水幸子と佐久間まゆの意外な申し出に、目を丸くして振り返った。  アイドルとしてはオフの平日、事務所にやってきてそんなことを言い出した2人の目には、強い決意の色が浮かんで見えた。  何せプロデューサーの認識では、この2人は所属アイドルの中でも指折りに怖がりな組み合わせだった。幸子は言わずもがな、まゆにしても夜の事務所には忍び込めるが、こと怪談話となるとめっぽう弱いのは周知の事実だ。 「どういう風の吹き回しだ? 次の夏はその手のドッキリ仕込んでほしいって振りか?」 「違いますよ! っていうかやめてくださいよ振りじゃないですよ! いい加減ボクはリアクション芸人じゃないんですからね!?」 「説得力ないんだよなあ」 「あなたの持ってくる仕事のせいでしょうが!!」 「幸子ちゃん、話がずれてますよぉ」